日本で二番目に設立された伝統ある小学校、 日新学校(現川中島小学校)校門を復元したい!

日新学校校門を復元する会
プロジェクトオーナー

日新学校校門を復元する会 代表 北澤俊美

教育・福祉 文化・芸術

11%

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  • ¥115,000
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  • 28口
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歴史遺産の保存にかかわりながら もう一度この郷土を見直してみよう。

2023年09月30日 18:13

 

1、川中島の地名

・現在は長野市の犀川と千曲川に囲まれた三角地帯の地名であるが、川中島四郡といって信濃の国北部の高井郡(上高井郡 下高井郡及び中野市、須坂市) 水内群(現上水内郡 下水内郡及び飯山市、長野市)、更級郡、埴科郡(千曲市を含む)を指し現在で言う「北信」一帯を含む大きな概念であり、武田信玄が「川中島四郡」もしくは「奥四郡」と呼んで重要視したところである。 関ヶ原の戦い後森忠政が慶長5年(1600年)13万7千石で入封してから家康の6男松平忠輝が元和2年(1616年)改易されるまで この二家の領有期間は「松代藩」ではなく「川中島藩」と呼ばれる。そうしたより広くより深い概念としての「川中島」をこの地区の町名にしたことには意味がある。

2、幕末維新の教育 「日新館」の設立

・ほぼ17世紀後半までに信濃諸藩の藩政機構が整備され官僚的な制度が確立した。
官僚的な支配は文書による支配で 諸大名は文書によって広い地域を統一的に支配するようになった。文書による支配が進むと文字学習の需要が高まり各地に寺子屋(手習い所)が生まれた。信濃の寺子屋は明治の初めまでに6163人も知られており、「全国一」の多さだった。明治9年の小学校就学率は63%でこれも全国1位だった。
・明治維新後において我が国の近代化が急速に進められ、短期間に高度な近代社会を成立させることができたことにつてもその背後に幕末において、我が国の文化と教育が高い水準に達していたことを見逃すことができない。
・武家の子弟教育を中心とした藩校と庶民の子供の教育機関としての寺子屋は江戸時代の代表的な学校であったが、江戸時代にはこのほかにも種々な教育機関が設けられていた。その一つは郷校(郷学)である。従来郷学と総称されるものに二種のものがあり、その一つは藩校の延長あるいは小規模の藩校というべきもので藩主が藩内の要地に設け、あるいは家老・重臣などが領地に武家を対象にして立てたものである。
・ほかの一つは主として領内の庶民を教育する目的で藩主や代官によって設立されたものである。これらは庶民の教育機関としては寺子屋と同じであるが幕府や藩主の保護・監督を受けていたところが寺子屋と区別される。
〇明治維新後は国民一般の教育を国家の重要施策の一環として企画することになり 維新政府は明治2年2月に諸府県で実施する行政の大綱として「府県施政順序」を定め その中の一つとして「小学校を設る事」を挙げている。当時は諸藩がなお存続していたため新政府直轄の府県のみを対象にしたものであり全国に適用する規則ではなかった。
・維新の戦乱後なお日の浅い当時において小学校の設置が順調に進んだものとは考えられないが なぜかしかし2年6月 今里の小森沢に長野県における近代教育の先駆として日新館が誕生した。命令されてではなく自発的に動いて「人民共立」として作られたことは注目に値する。しかし地方行政の目まぐるしい変革の中で設立者が「人民共立」から「藩立」「区立」へと目まぐるしく変転し、学校名もその都度改称された。
明治維新の指導者たちは近代国家を建設する基礎として国民を育成することが肝要であり、そのために国民一般の教育が急務であることを認めていた。そうした政治の中心にいた人たちの思いを理解したり共感できる人たちが日新館を作ったと考えていいのではないか。


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