登戸研究所調査研究会5周年記念書籍刊行!!

登戸研究所調査研究会5周年記念書籍刊行事業
プロジェクトオーナー

登戸研究所調査研究会

教育・福祉 地域活性化 伝統文化

20%

  • 現在
  • ¥240,000
  • 目標金額
  • ¥1,200,000
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  • 80口
  • 残り日数
  • 終了
このプロジェクトは、目標金額達成の有無に関わらずリターンをお申込みいただくとプロジェクト成立となります。

登戸研究所研究会発足5周年記念 書籍『信州伊那谷にきた謀略機関-市民が迫る疎開した陸軍登戸研究所-』近日刊行

登戸研究所調査研究会結成5周年事業として冊子『登戸研の伊那谷疎開』を8月に刊行します。刊行にあたり、多くの方々のご支援をお願いいたします。
☆登戸研究所調査研究会の5年間の活動で明らかになった内容を皆様にお届けします。
☆秘密機関登戸研究所の伊那谷への疎開の実態から戦争と平和について問いかけます。
☆今後の常設展示や平和教育などにつながる節目となる刊行です。
 
書籍『信州伊那谷にきた謀略機関-市民が迫る疎開した陸軍登戸研究所-』の特徴
・30数年前に高校生たちが秘密にされていた歴史のベールをはがし、この5年間の調査研究で疎開の実態が明らかとなってきた秘密機関。それは・・
・本気だった長野での本土決戦! 疎開した登戸研究所は伊那谷で何を研究、製造していたのか!
・私たちはこの歴史から何を学び、何を後世につなげていけばいいのだろうか
(定価1500円(税込み) 編集:登戸研究所調査研究会 制作:信濃毎日新聞社)

第1章    信州長野でもゲリラ戦(本土決戦)の準備~秘密機関旧陸軍登戸研究所の疎開とその実態~
 1.本土決戦(遊撃戦)準備と登戸研究所の疎開
 (1)なぜ秘密機関登戸研究所がこの信州上伊那に疎開してきたのか
 (2)上伊那も本土決戦の戦場になる可能性があった
 (3)遊撃戦(ゲリラ戦)の実態を示す指南書
 (4)証言から見る疎開した登戸研究所の実態
   2.沖縄戦と大本営移転計画

第2章 陸軍登戸研究所の組織と疎開
 (1)登戸研究所の歴史と組織、研究内容
 (2)上伊那地方に疎開した登戸研究所

第3章    疎開していた登戸研究所は何を研究していたのか
 (1)残されていた登戸研究所の机~飯島町の机のゴミの分析~
 (2)木箱の“研「ウ」三號薬”のラベルが示すもの
 (3) 登戸研究所に残それた専門書から見える研究内容

第4章    残された行政文書が語る歴史の教訓
 (1)登戸研究所の疎開と地域、そして住民
 (2)戦争とは何か
 (3)私たちは何を教訓として未来につなげるのか
(コラム)東伊那で発見された文書

第5章 私たちが未来につなげていくもの
(1)歴史の秘密のベールをはがした高校生たち
(2)登戸研究所調査研究会の5年間の活動
(3)地域の取り組み ①宮田村 ②飯島町
 (資料)学校日誌関係資料
 (資料)結成5周年記念シンポジウムのまとめ
 (付録)木下健蔵氏追悼 (遺稿)陸軍登戸研究所の長野県への疎開
登戸研究所調査研究会とは…
(調査研究会発足の趣旨)
 公民館協議会の戦後70周年企画の平和講座で登戸研究所の歴史がとりあげられてきました。そのとりくみを受けて調査研究会は、小木曽 伸一氏(元駒ヶ根市教育長)と木下健藏氏(元県立高校教諭)の呼びかけで、懇談会や学習会を経て、2018年5月13日に発足しました。発足に向けた懇談会よびかけでは以下のように触れられています。
 
「元陸軍登戸研究所の件につきましては、この間戦後70周年を節目とした各方面での取り組みなどで、地域の大事なテーマとしてとりあげられてきました。・・・
 登戸研究所の問題は、赤穂高校の平和ゼミナールの生徒によるききとり調査をきっかけに、地域の歴史の大事な課題として市民的関心が広がっているところです。駒ケ根市も公民館活動を中心に継続してとりあげられてきました。「二度と戦争を起こしてはならない」という市民的とりくみも行われています。
 これらの中で、登戸研究所の歴史をきちんとまとめて子や孫に伝えていくことの重要性が提起されてきました。・・・
 現在、中沢公民館で登戸研究所に関する資料が保管され展示されています。しかし歴史をまとめ後世に伝えていく上では、課題をかかえているのが現状です。・・・・」
戦争末期に上伊那地方に疎開していた陸軍登戸研究所とは…
第一次世界大戦に入って戦争形態が「国家総力戦」となります。その中で秘密戦強化のために旧日本陸軍が開設したのが登戸研究所でした。
登戸研究所は、秘密戦兵器・資材を研究・開発する組織でした。正式名称は第九陸軍技術研究所でしたが、研究・開発内容を決して他に知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名でよばれていました。
秘密戦とは、防諜(スパイ防止)、諜報(スパイ活動)、謀略(破壊・攪乱活動・暗殺),宣伝(人心の誘導)の4つの要素から成り立っているといわれています。登戸研究所はそれらの秘密戦のための研究機関として設けられ、アジア太平洋戦争において秘密戦の中核を担う組織として、軍から重要視された機関でした。
登戸研究所が生物化学兵器(毒薬・細菌)の研究開発の過程で731部隊などとともに人体実験を行った謀略機関としても知られています。
その登戸研究所が戦争末期に上伊那地方に疎開していました。

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終戦すぐに秘密機関である登戸研究所に関する資材は廃棄され、その実態は闇に包まれていました。しかし戦後40年以上たった1989年、赤穂高校の平和ゼミナールの生徒たちによるききとり調査によってその実態が明らかになりました。現在調査研究会は再調査をすすめながら、歴史の事実を後世に伝えていくための活動を行っています。
戦争末期の登戸研究所の上伊那地方への疎開状況
敗戦が濃くなる戦争末期には大本営(日本軍を支配下におく天皇直属の統帥機関)の長野県松代への移転計画に伴い、川崎市(現明治大学生田校舎)にあった登戸研究所が上伊那地域などに疎開しました。
1945年に本土決戦にそなえ「決号作戦準備要綱」が策定され、6月には「義務兵役法」が公布され、国民すべてが戦闘要員とされました。
疎開地の学校や寺などがそのための施設となり、地域住民が全面的に協力せざるをえない状況となっていました。
 登戸研究所の本部は宮田村の真慶寺に置かれ、主に第2科と第4科が上伊那地方に疎開しました。

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調査研究会の活動
調査研究会は、2018年5月に発足してから、現地調査3回や学習会4回、市立博物館での展示、ききとり調査などに取り組んできました。
 調査研究会の活動は以下の申し合わせにそって進められています。調査にかかわる会員と同時に賛助会員も募っています。またFacebookやTwitterでの情報発信も行っています。